平成ジンギスカンブームを振り返る

 2004年から翌年にかけて、空前のジンギスカンブームが吹き荒れました。我々「東ジン」にも取材依頼が毎日のように飛び込んできたものです。雑誌・新聞・TV・ラジオ……。数え切れないほどの取材をこなし「ジンギスカンにこんなことが起こるなんて・・・」と信じられない思いでした。そのブームの実際と功罪について振り返ってみることにしましょう。

●2004年夏、中目黒発
 昭和30年代に全国的なジンギスカンブームがあったと聞きますが、長らくブームなどという言葉から無縁であったはずのジンギスカンがにわかに脚光を浴びだしたのは2004年、平成16年の夏のことでした。折からのBSEや鳥インフルエンザ騒動もあって、食肉としての羊はじわじわと注目を集めはじめていたのですが、その年7月、中目黒に「くろひつじ」というオシャレなお店がオープンしたことで注目のスポットになりました。中目黒はそれまでも「まえだや」というジンギス店があり、「くろひつじ」と前後してほかに2店舗のジンギス専門店が開店したことで、ジンギスカン店のメッカ的な扱われ方でメディアの熱い視線を浴び始めたのです。
 今から思えば、雑誌やTVなどのメディアは、流行やブームというものを常に欲しているのでしょう。オシャレな地域にジンギスカン店次々オープン、という現象にメディアはわっと飛びついた感じでした。週刊誌や月刊誌、アウトドア雑誌にトレンドマガジン、グルメ雑誌。次々とジンギスカンを取りあげはじめ、TVやラジオ、新聞までもが競うようにジンギスカン特集を組み始めたのです。
 件の「くろひつじ」は連日満員、長い行列ができました。それを見た同業他社も飛びついて都内に信じられない勢いでジンギスカン店が増殖していったのです。2005年、その勢いは狂乱といっていいようなすさまじいものでした。2004年夏までに都内のジンギスカン店は15店でした。それまでも毎年2店増えては1店減り、といった状況で、我々としてはその微かな増減に一喜一憂していたものです。このHPを開設したのは2000年の春ですが、それ以降のジンギスカン店の増減をあらわしたものが下のグラフです。2005年に入って加速度的に増えていくのが分かります。2005年末、都内のジンギスカン店は200店を突破。しかし同時に閉店する店も現れはじめ、2006年夏以降は急激に減少に転じています。

青い折れ線はその期間の新規開店数を、白い折れ線は閉店数をしめす。(右目盛り)

●「東ジン んまい店」プロジェクト始動!
 そのブームを見た「東ジン」が「理想のジンギスカン店」を目指して究極のジンギスカン専門店の開店を決意したのは2005年3月でした。増え続けるジンギスカン店を目の当たりにし、新店舗の開店前に招かれることも少なくなかったのですが、「これは!」と思える店は多くありませんでした。仕事上のクライアントを誘って行けるようなジンギスカン店が出来るといいな、と思っていたのですが、なかなかそういったお店は多くなかったのです。ジンギスカン店といえば煙がもうもうと立ちこめ、賑やかで騒がしいというのが当たり前、食べたらさっさと帰るラーメン屋タイプのお店が多かったのです。ただ焼くだけでなく、赤ワインなどを傾けて、じっくりと羊のおいしさを楽しめるお店があるといいのにな、という思いが「じゃ自分で造ってしまおうか」という思いに変わるのにそう時間はかかりませんでした。
 生ラムが全盛だけど、本当の羊の旨さが味わえるマトンを堪能できる店。生肉だけでなく、味付け肉やロール肉など様々なジンギスカン好きの嗜好に応えられる店。服に匂いのつかない排煙設備を実現して、デートや社用にも抵抗もなく使える店。そんな理想の店の姿がすぐに浮かんできました。半年後のオープンを目指して理想のジンギスカン店オープンのプロジェクトがスタートしたのです。
 サッポロビールをはじめ知己を得ていた方々の助力もあり、計画は一歩一歩進んでいきました。一緒にやってくれる飲食業界に詳しいスタッフ、肉や野菜を仕入れる業者の選定などどれも実に楽しい作業でした。店の場所はブームまっただ中においてもジンギス店真空地帯という感じだった飯田橋・市ヶ谷周辺に的を絞りました。7、8月は毎週のように物件探しに歩き回ったものです。
 物件が決まり、店の名は「ひつじぐら」に決定。物件が地下で、はじめに案内されたとき穴蔵みたいな印象だったからです。オープニングスタッフを集めて研修会を開いて……と目も回る忙しさで9月27日オープンに向けて準備を進めました。当時の告知ページ

 2003年暮れ時点のMAP(上)と、2006年前半時点のMAP(下)。2003年までのほのぼの感を感じていただけるだろうか。

●過熱したジンギスカンブーム
 上のグラフを見ても分かるとおり、2005年夏が出店のピークでした。月20店舗以上のペースで新規店が現れていたのですから尋常な事態ではありません。にわかに巻き起こったジンギスカンブームに関して、否定的なスタンスを取るジンギスカンファンが目立ちました。これまでマイナーで辛酸をなめてきたジンギスが突然脚光を浴びた戸惑いと、かつてのモツナベブームになぞらえ、ブームが去った後の不毛感をイメージしてのことだと思います。玉石混淆な現状を憂う声も多く聞かれました。変な店でジンギスカンを食べ、なんだこんなものか、と思われて終わりになりはすまいかと。ブームのせいで羊肉の価格が上がって入手しずらくなった、と恨みをぶつける方もおりました。
 我々はどう感じていたかというと、ブームはおおむね歓迎していました。ただ、ブームが終わった後にどのくらいのお店が残るかが問題だと感じていました。モツナベブームの際のように、ほとんどのお店が姿を消すというような事態にはならないだろう、高止まりした水準で横ばいになるのではないかと考えていたのを思い出します。年内に200店舗まで増えたなら、2割は潰れて160店舗くらいで推移していくのではないか、というのが私の予想でした。

 
オープンを前に行われたオフ会の一コマ。
ある日の「ひつじぐら」。雰囲気のある、いいお店でした。


●「ひつじぐら」オープン! そして閉店
 そんなさなかに東ジン「ひつじぐら」はオープンしました。計画の段階から北海道新聞の記者に取材を受けていたこともあって、オープン当日は新聞の取材が入りました。そして翌日、東京新聞の一面にも大きく掲載されたのでした。
 そういったPR効果にも助けられ、オープン当初は目論み通りの大にぎわい。これは支店も考えねば、などと思ったのもつかの間でした。翌2006年3月、潮が引くようにお客さんが少なくなっていくのが分かりました。「ひつじぐら」だけでなく、ほかの店の多くも同じだったと思います。どのジンギスカン店も青ざめるほどの勢いで、客足も売上げも減少し始めたのです。
 夏以降、糸○さんがHPで紹介してくれたり樋○さんが新聞でよく行く店として取りあげてくれたりしたラッキーがあって賑わいを取り戻したりしましたが、やはり一過性のもので2007年にはすっかり閑古鳥状態となってしまったのです。そして2007年末、閉店。熱愛してくれるお客さんも少なくはなかったので苦渋の決断でした。

●ジンギスカンブームが残したもの
「ひつじぐら」は残念な結果に終わってしまいましたが、このブームが残したものは決してマイナスばかりではありません。上のグラフを見ても分かるとおり、今でも80店以上のお店が残って営業しているのです。ブーム前の15店舗に比べれば5倍以上の数です。今後さらに少なくなったとしても、15店舗以下になることはないでしょう。おそらく50店舗くらいのレベルで推移するのではと思っています。また、都内のスーパーでもラム肉を扱うところはブーム前に比べればグンと増え、それはブームが終わってもさほど変わっていない印象を受けます。以前は「ジンギスカン」を知らない、あるいは食べたことのない人の方が圧倒的に多かったと思います。でも今はそういった認知度では比べものにならないほど上がったのではないでしょうか。つまりブームによって確実に「ジンギスカン」はポピュラーになったと言えると思います。
 いずれまた第2、第3のジンギスカンブームが来るのかは分かりません。しかし我々は今回のブームを間近に接してみて、関東圏の「羊肉」に対するスタンスがよく分かった感があります。やはり北海道や一部の地方に多い「毎週食べてもいい」というような熱狂的ファンは育ちにくい。ブームで一時面白がって食べても、本当のおいしさにめざめてお気に入りになる層はごく限られている。でも北海道生まれでなくても、東京や関西生まれでも、中には「羊肉」のおいしさに目ざめ、虜になる人たちも少なからずいたのです。今回のブームは「羊肉好き」「ジンギスカン好き」を圧倒的ではなくとも着実に増やしたことだけは間違いないと確信しています。次のブームがいずれくることがあるとして、我々はそれに過剰な期待を抱かないものの、諦めたわけでありません。


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